ともえやの敷地はなぜ細長い?
巴家正面の道路に面した部分は約14メートル、それに対して奥行きはその4倍近くもあります。間口税なるものが江戸時代にあったかどうかについては諸説あるようですが、江戸や京都ならともかく、当時一面田畑だったはずのこの十日市地域がどうして同じように細長い区割りなのだろうと不思議に思っていました。
江戸時代初期に広島の浅野藩の支藩として誕生した三次藩、その城下町として栄えたのは三次町でした。山陽と山陰を繋ぐ交通の要所、物流の拠点として1720年の廃藩後も三次町がこの地域の中心的な役割を果たしてきました。三次町とは川を挟んだ十日市町が市街地として発展し、商店街や住宅が立ち並んできたのは戦後のことだと聞いています。
ところが、頼杏坪らが編纂した芸藩通志(1825年完成)の中の絵図には、三次町とともに十日市町の一部にも町並みらしきものが描かれており、この辺りも江戸時代後期には石見銀山街道に面して商家や民家が立ち並んでいたことがわかります。ということは、より多くの店で街道の賑わいを創出するために、必然的に細長い区割りになったということでしょうか。
そんなわけで、旧巴家は街道に面した細長い敷地の上に、正面には酒屋を構え、その奥に住居、庭を挟んでまたその奥に酒蔵、そして畑という造りになっていました。画像は母屋の入口から奥に抜ける長い通路と、その上の吹き抜けです。屋根までの高さは7~8m。このような構造では三次の冬の寒さはかなり堪えたことでしょう。時代は移り変って、昔、ここに先人たちのどんな暮らしがあったのか、職人さんたちがこんなに天井の高い家をどんな工夫を凝らして建てたのか、今となっては知る由もありませんが、その人たちが生きた証でもあるこの家はできる限り残していきたいものです。